一味会
Produced by ENYSi
第1回「一味会」開催の経緯京都学派の巨星、梅棹忠夫との縁
京都—-。この地は平安遷都以来、帝の住まう王城の地となり、政治、経済の中心として発展しただけではなく、学芸の都としても栄えていきました。公家たちが私塾をつくり、学僧たちが学びの伽藍を築き、また町衆たちが学舎を開いていったのです。やがて明治になると帝は東京に移りましたが、次々に大学がつくられ、京都は学芸の都を堅持しました。その始まりは、東京帝国大学に対抗するかのように、第2の帝国大学として創設された京都帝国大学でした。ここに集った学徒は、「政治の中心から離れ、真の学問を」と、西洋翻訳主義に嫌疑を唱え、日本や東洋の学を礎に独自の学問の構築を目指したのです。やがて彼らの中の特に個性的なグループは京都学派と呼ばれるようになりました。
梅棹忠夫(1920〜2010)は、そんな京都学派の系譜に輝く巨星のひとりです。西陣の町衆の子として生まれ、京都大学教授を務めた後、国立民族学博物館初代館長にとなりました。残された著作は膨大で、著作集は22巻別巻1。この碩学の著作をENYSiのメンバーは、日本を、世界を知る鍵として少しずつ読んでまいりました。そうした矢先、北白川伊織町の梅棹の旧邸が、次男のマヤオさんの手でギャラリー「ロンドクレアント」にリノベーションしたことを知ったのです。
訪ねると、そこは一意のアーティストの発表の場であり、今でも梅棹忠夫を慕う現代の碩学たちが集まる場でした。やがて、ENYSiのメンバーにとってロンドクレアントはかけがえのない場となり、いつしか一緒に企画展をつくっていくことになったのです。企画展は、「梅棹忠夫と未来を語る」と通しタイトルを付け、その第1回は「梅棹情報学・文明学とコンピューター〜生態系から文明系へ」となりました。この展覧会を、ENYSiは全面的にサポートさせていただき、全4回のミニ・シンポジウムを挟んで2016年12月6日から18日の日程で開催。そのうちの一夜を「一味会」とさせていただきました。
第1回「一味会」の目指したもの梅棹忠夫を回顧するのではなく、
梅棹の遺産から未来を考える会に
梅棹忠夫の仕事は、常に旅から始まりました。探検と呼ぶにふさわしい過酷な旅でした。その果てに世界各地の人びとと触れ合い、梅棹は民族学者として大きな業績を残しました。また、『知的生産の技術』は多くの方がご存知ではないでしょうか。この本は50年近く前の梅棹の著作ですが、情報の発見、処理、活用、発信に関する書として、コンピューター・テクノロジーの発展した現代でも読み継がれています。じつは、現代の私たちが普通に使っている「情報産業」という言葉は、梅棹が1963年に造語したものなのです。
梅棹は、伝統的な文化を色濃く残す民族を訪ねる一方で「情報」と「文明」にも学術的に切り込み、高度に発達した文明の未来を考え続けました。しかし1986年、突然に両目の視力を失い、その後に発展したコンピューターにほとんど触れられないまま、2010年に他界しました。
今回、そんな梅棹を回顧するのではなく、梅棹の残した「情報」と「文明」に関する考察を受け、現代を見据え、さらには未来を考えてということが主旨となりました。インターネットの普及、SNSの発展で、今やコンピューターは私たちの暮らしに欠かせないものです。その反面、やがてはコンピューター・テクノロジーに人間の営みが取って代わられるのではないか、という不安もあります。議論は大いに盛り上がりました。
第1回「一味会」開催地 法然院梅棹の遺産に感謝し、コンピューター社会を語ろうと、
未来志向の古刹、鹿ケ谷の法然院に協力を仰いだ
今回の「一味会」のために会場をご提供していただいた法然院は、不思議なお寺です。
鎌倉時代に起源があるなどというと、たいていは敷居も高かろうと思ってしまうのではないでしょうか? ところが、京都で聞くと、一同に「法然院なら、君たちの企画も引き受けてくださる」というのです。調べてみますと、これまで数々のアーティスト、クリエーターが法然院境内で展覧会を行ない、学術シンポジウムの場にもなり、市民活動にも積極的に場所を提供していることがわかりました。
開かれたお寺とは、まさに法然院のことだ——–。
そう思い、会場提供をお願いすると、本当に快く引き受けてくださいました。「一味会」のために開放いただい時間は、なんと4時間。会場は堂内の「食堂」という部屋で、ここは「じきどう」といい、かつて学僧たちが集い、食をともにしながら仲間たちと大いに議論をした部屋だそうです。そこで梅棹忠夫の遺産に感謝と敬意を評しつつ、梅棹が味わえなかった最先端のコンピューター・テクノロジーを議題に現代と未来を語り合いたいーーという主旨を伝えると、法然院第31代貫主の梶田真章さんも議論に加わってくださることになりました。
そして、梶田さんも交え、大いに議論し、堂内でとっておきの京料理をいただき、極上のワインも楽しんだのです。
「一味会」という名は禅宗からいただきました。一方、法然院は法然上人が弟子とともに開いた草庵が起源で、法然上人は浄土宗の開祖です。禅の教えには、この世での自力努力を促されます。反対に浄土の思想は、法然が説き、親鸞が深めた他力本願に結実しました。両方の宗派には、根本的な違いがあると感じてしまうのは私たちだけでしょうか? しかし、梶田さんは「自力を上げる努力のないところに他力を認める心は育たず、また他力を認めないところに自力の向上はありません。自力と他力は表裏一体で、それぞれの宗派で打ち出すものは違いますが、仏教の中では対立することなく共存しております」とおっしゃいました。
法然院31代貫主梶田 真章さんMasaaki Kajita
1956年、神戸大学教授も務めた法然院第30代貫主を父に京都に生まれました。大阪外語大学(現・大阪大学外国語学部)ドイツ語学科卒業後、法然院執事になって修行。そして1984年、ご尊父の往生を受けて第31代貫主に就任。現代の寺のあり方を常に追求し、多分野の人びとと交流する未来志向の宗教家です。『ありのまま 〜ていねいに暮らす、楽に生きる』(リトルモア)など多数の著作があり、テレビ、ラジオにも度々出演しています。
お招きした講師の方々
今回、議論のテーマを「梅棹情報学・文明学とコンピューター 〜生態系から文明系へ」とし、3名の講師の方々をお招きしました。それぞれの立脚点は異なりますが、コンピューター関連分野でいずれ劣らぬ活躍をされている方々です。もちろん、それぞれに梅棹忠夫への造詣も深い方々で、とりわけ今回は、2014年に日本でも翻訳出版され、テクノロジーと人間の未来を説いたケビン・ケリーの『テクニウム』(みすず書房)と梅棹学との関連にも重きがおかれました。
ジャーナリスト服部 桂さんKatsura Hattori
〈写真左〉1951年東京生まれ。ジャーナリスト、翻訳家。早稲田大学大学院修了後、朝日新聞社に入社。当時はいよいよコンピュータ・テクノロジーによりメディアの革命が起こるだろうといわれ始めた時期で、理工系出身のため、その研究要員に抜擢されました。そして、MITメディア・ラボに2年間留学。帰国後はニューメディア関連の雑誌編集などに関わりました。そんな経験を生かし、退職後はメディア関係の著作、翻訳も出版しています。ケビン・ケリーの著作を翻訳したのも服部さんです。当日の演題は「メディアの過去、現在、未来~~マーシャル・マクルーハンからケビン・ケリーまで」 でした。
東京大学大学院情報学環教授暦本 純一さんJun Rekimoto
〈写真中央〉1961年東京生まれ。東京大学大学院情報学環教授、ソニー・コンピュータ・サイエンス研究所副所長、理学博士。ヒューマン・インターフェイスの研究を軸に、拡張現実感(AR)など、コンピューターと人間の関係を追究し続けています。現在、私たちが恩恵を受けているマルチ・タッチ・パネルは、暦本さんの研究が軸のひとつとなって民生品に導入されるにいたりました。梅棹忠夫の著作には中学時代に初めて触れ、その後の人生を決定づけたそうです。梅棹情報学・文明学の再考を唱え続け、ケビン・ケリーの論考と梅棹学の関係性も真っ先に唱えた人でもあります。今回のロンドクレアントの企画展には展示でもご協力いただき、ミニ・シンポジウムにも3回出席するというフル回転の活躍でした。当日の演題は「ケビン・ケリーから梅棹忠夫〜生態系から文明系へ」でした。
国立民族学博物館名誉教授久保 正敏さんKubo Masatoshi
〈写真右〉1949年東京生まれ、京都に育つ。国立民族学博物館名誉教授。工学博士。京都大学で情報工学を修めた後、1983年に梅棹忠夫が館長を務めていた民博の助手に。民博は、梅棹の考えで創設当初から大型コンピューターを導入し、その専門家を立てて「コンピューター民族学」という研究分野を開設しました。久保さんは、その初代教授だった杉田繁治教授とともに仕事し、後に2代目教授となりました。コンピューター・テクノロジーを生かした研究手法の構築だけでなく、フィールド・ワークを実践する野外派で、オーストラリア先住民の研究に従事しました。また、梅棹逝去に伴って梅棹の全資料を保管・管理する梅棹資料室が設置されると、その初代室長に任命され、コンピューター民族学と兼務してきました。当日の演題は「梅棹の情報学と文明学〜〜情報とは何か」 でした。
祇園又吉
「一味会」当日の食事は、かねてよりENYSiのメンバーが懇意にさせていただいている「祇園又吉」店主の又吉一友さんによる特製の折り詰めとさせていただきました。京料理は、日本料理の本丸でありながら、その実態は実に多様で、日々進化を続けていると言っていいでしょう。そうした中で又吉さんは、伝統を抑えながらイノベーティブな挑戦を続ける料理人です。それは、又吉さんが沖縄出身だということと関係があるのかもしれません。京料理の伝統にはない沖縄の特産品を加えるほか、チーズをはじめとした西洋料理の素材も巧みに加えて、独自の和食の世界を作り上げています。そんな試みは「歴史遺産を未来資産へ」と活動を続けるENYSiと通じるものと感じ、「一味会」への料理のご提供をお願いしました。又吉さんは今年39歳と中堅ながら、その腕はミシュランもうならせ、2ッ星を冠されました。
ワイン各種
お酒は「ENOTECA」のワインとペアリングしてご用意しました。素晴らしい日本料理に対して受身的な日本酒の合わせではなく、新しいものとの組み合わせにチャレンジすることでイノベーティブな姿勢を表現。美味しい組み合わせというよりは、一味会に参加したメンバー皆さまが、その新しい組み合わせを同時に発見する瞬間を共有することで、会の一体感をつくりだせたらと考えました。サーブする側とされる側ではなく、共に実験をして結果を楽しむ、そんな一体感を込めてご用意しました。
謝辞
このたびENYSiのみなさんに開催費用をサポートいただき、ロンドクレアントの第1回企画展を開催することができ、本当にありがたく思っております。また、お話いただいた先生方、ミニシンポジウムにご参加くださった方々、展覧会を観にきてくださった方々には、年末のお忙しいおりにもかかわらず足を運んでいただきましたこと、この場をお借りしてお礼申し上げます。
現在、ロンドクレアントとして、貸しギャラリーにしている建物は、私たちが父の梅棹忠夫とともに暮らしてきた家でした。私は陶芸を生業にしてきて、アカデミズムとは無縁に過ごしました。ギャラリーを思い立ったのは、これまでに自身の展覧会を開いてきた経験からでした。しかし、父が他界して時間が過ぎるうちに、不思議なもので父がどんな仕事をしてきたのかが気になるようになっていきました。そのため、残していった北白川の家をどうしようかと考えたとき、父の存命中のように、いろんな分野の方々が集い、お酒を酌み交わし、夜が明けるまで議論するような場を蘇らせたいとも思うようになりました
父は生前、酒場に行くより家で飲むことが好きで、学生、学者、ジャーナリスト、作家と、多彩な方々が我が家に集いました。そうした方々が楽しく議論する中で私は育ったのです。2015年8月末、ロンドクレアントをオープンしますと、生前の父と縁のあった方々も訪ねてくれ、アーティストやミュージシャンも集い、私が子どもの頃のような談義が少しずつ蘇っていきました。とはいうものの、やはり梅棹忠夫は父であり、学者、著述家という公人の面があるとはいえ、なかなか客観的には見られず、梅棹忠夫を題材にした企画展は棚上げになっていました。そんな矢先、ENYSiのメンバーと知り合っていったのです。
彼らは若く、梅棹忠夫には会うことはありませんでした。しかし、著作を少しずつ読み、そこで見開かれたことを仕事や暮らしに活かそうとしていました。そうして、何度となく話をしていうちに企画展を一緒につくっていくことになり、その中の一夜を、ENYSiとしては「一味会」にするということになったのです。
父は、自分の仕事を讃えられることを喜ぶようなところはなく、むしろ、自身の投げかけた発言に対する応答、批判を望み続けました。そして、未来を語り合うのを好み、そのためとなると自ら進んでまな板の上に載りました。そこで、「梅棹忠夫を肴に未来を語り合う」ことをコンセプトにするというのが、私のさせていただいた唯一の提案でした。
梅棹忠夫の広い分野に渡る仕事の中でも、「情報」と「文明」を抜き出し、コンピューター・テクノロジーの最先端で仕事をされている方々に議論をしていただいたのは、本当によかったと思います。父は、そんな世の中を予測していましたし、本当に今の私たちの暮らしはコンピューターと切り離せなくなっています。法然院のご住職が加わったことは、議論に深さと広がりが増し、本当に大きなことでした。記して感謝申し上げます。
このたび灯していただいた明かりを絶やさないようにしていきたいと思います。ただ、ロンドクレアントは立ち上がって日が浅く、私たちだけでは力が足りません。みなさまさのお力添えを賜れますと幸いです。
ぜひとも京都をお訪ねください。
開催レポート
2016年12月17日(土)@法然院
京都、大阪、さらに東京からも足を運んでいただき、ご参加くださった総勢23名の方々のご着席、開会の辞の後、法然院第31代貫主、梶田真章さんにご講話いただきました。演題は「情報社会と宗教」。当寺の来歴とともに、情報社会における仏僧の役割などをお話くださいました。そして、3人の講師の方々による30分ずつの講演と続きました。
服部 桂さん 「メディアの過去、現在、未来~マーシャル・マクルーハンからケビン・ケリーまで~」
暦本 純一さん 「ケビン・ケリーと梅棹忠夫~生態系から文明系へ~」
久保 正敏さん 「梅棹の情報学と文明学〜情報とは何か〜」
講師の方々の発表内容は、この日の議論を踏まえ、論考をまとめてくださる予定で、発表され次第、このサイトでも公開していきます。(一部はすでに完了し、発表されました。マガジン「航」(http://magazine-k.jp/)。
話題提供の内容は、概ね以下のようになりました。
まず服部さんが、マーシャル・マクルーハンと近年話題のケビン・ケリーというふたりの著作を発端に、北米での約50年間に及ぶメディア、テクノロジーの発展、さらにその現象を捉えたうえでの未来予測的な論考に対して解説してくださいました。ここで気になるのは、「そのとき日本では?」ということになります。この件に関し、暦本さんは、梅棹忠夫こそ先駆者なのだと説く急先鋒です。梅棹はマクルーハンと同世代で、マクルーハンが『メディア論」を著したのとちょうど同じ年の1962年に「情報産業論」を著し、情報の重要性、今後は情報産業が文明社会の基幹産業になることを予測してみせたのです。さらにケリーがいう「テクニウム」は、人間が作り出した太古の昔の石斧から最新のコンピューターまで、すべての道具の系=システムのことですが、こうした考えはケリーより30年以上早く梅棹忠夫によって提示されていた、と暦本さんは語りました。それが梅棹のいう「文明」で、梅棹は文明を装置群(テクノロジー)と人間とで作り上げる系だと考えたのです。そして、人間社会は、生態系から文明系へ移行しながら進化していくと解きました。このように、コンピューターと人間とで作る社会のあり方に対する議論は、一気に梅棹の情報学、文明学、つまりは日本の学説へと引き戻され、さらに暦本さんにより、最新コンピューター・テクノロジーの成果が発表されました。
コンピューター・テクンロジーは人間の能力を拡張させますが、それは進化なのか退化なのかは断定できません。それを踏まえたうえで、北米の論客たちに肩を並べ、あるいは先行して情報論、さらにはテクノロジーと人間とで作る文明に関する論考を発表し続けた梅棹忠夫とは、いったい何者だったのか。これを情報学、文明学の観点から解説してくださったのが久保さんです。久保さんは、梅棹がバーチャルな体験より、世界各地への旅によるリアルな体験をするフィールド派だったことを、まず伝えてくださいました。そして、情報は外界のあらゆる場にあるが、それはあるだけで、そこにあるものを情報と受け取るのは人間の側だ、という梅棹情報学の根幹を説明した後、梅棹はテクノロジーの発展を歓迎する一方で、実はこのままテクノロジーが発展すれば、やがて人間は破滅に向かうと心配していた事実も明かしてくださいました。
会は、ここで休憩を挟み、続いて祇園又吉の京料理とワインを味わいながら、「コンピューターの未来と文明の未来」と題し、講師、住職、参加者とでディスカッションが行われました。議論は、「物が事を作るのではなく、事が物を生んでいくのです。これを仏教では因果応報といいます。SNSの発展は、思わぬところで人間同士の諍いを起こすようなことにもなり、今後はいっそう坊主の役割が増していくことになると思うんですが、今の坊主は仏法を説くことを怠っています」という梶田さんの話から始まりました。そして、それに促されるように参加者から次々に質問や問題提起があり、講師が順に応答していきました。約2時間に及んだディスカッションで議題に上がった内容は、概ね以下の通りです。
- シンギュラリティが叫ばれる中、人間の営みは本当にテクノロジーに取って代わられるのか?
- テクノロジーによって人間の能力は本当に拡張されたのか?
- 子どもたちという成長過程にある人間には、どの程度の情報が届けられるべきか?
- 仮想体験と実体験のバランスはどのようにつけるべきか?
議論は白熱。やがて京都の街に帳が降り、「一味会」は議論再びと祈念しながら閉幕しました。
企画展「梅棹忠夫と未来を語る」
■ 2016年12月6日(火)〜18日(日)
第1回「梅棹情報学・文明学とコンピューター〜生態系から文明系へ」
会場:ロンドクレアント
开催ミニ・シンポジウム
■ 12月10日(土)「現代の知的生産の技術」
会場:ロンドクレアント
暦本純一さん 「知的生産とは何か」
堀・E,正岳さん 「コンピューター・テクノロジーを駆使した知的生産の実例紹介」
■ 12月11日(日)@国立民族学博物館
対談「梅棹アーカイブス〜知的生産は秩序と静けさのために」
小長谷有紀さん(人間研究開発機構理事・国立民族学博物館教授)
暦本 純一さん
■ 12月18日(日)@ロンドクレアント
対談「梅棹情報学・文明学とメディア論」
服部 桂さん
奥野 卓司さん(関西学院大学教授)